残酷、卑劣な三流魔王が、最期には主人公たちの人生指南役になる。そして灰になって、好敵手アバンを守る。
こんな展開を遂げるヴィラン(悪役)、少なくとも私は他の作品では見たことがない。
かっこいい所が1つもなかった敵・ハドラーがなぜ最後は圧倒的なかっこよさを獲得していったのか。
今回は、それを考え、そこからの学びを紐解いていきたい。
まずは、大魔王バーンとハドラーの関係から整理してみる。
簡単に言えば「力と恐怖による支配を一番身近で受け続けて、従属して、卑屈になっていた」のが魔軍司令ハドラーだった。
失敗を重ねると、処刑される。
「寛大〜」といっているが、本当に寛大な指導者は、失敗した部下を何があっても殺したりはしない(笑)。バーンの詭弁というべきところだ。
実は、力と恐怖による支配は、ハドラー自身が好き好んでやっていたことでもある。
「部下(or仲間、同志)になれ」というのは、ドラクエシリーズのボスのお約束であるが、意味を翻訳するなら、「オレの力と恐怖の支配を受け入れろ」である。
魔軍司令ハドラーは、なぜダイたちに敗れ続けるのか。
バーンの見立てでは「甘さ」ということだ。
結果的にはこれはバーンの人を見る目のなさから来る、誤った見立てであるとそのうちわかる。
ハドラーが敗れ続けた理由は、自信のなさである。
力と恐怖の支配を受けていることになれきっていると、自分の力が出せない。
と、そこで自らの魔族の肉体を捨てて、強くなる道を選ぶ。
そこで見かけの上では、バーンによる力と恐怖の支配を抜け出すことができた。
ただし、これは仮初の脱却に過ぎない。なぜなら、バーンが多少は期待する強さになって、使える駒は使っておこうと思ったので「不問に処す」という態度を取ったにすぎならいからだ。
とはいえ、精神的には、バーンの力と恐怖の支配を受けなくなった。ハドラーは、自信獲得のための第一歩をようやく踏み出すことができた。
その後、ダイとバランという竜の騎士2人を、自分一人で迎え撃つという無謀な戦いに挑む。その最中、埋まっていた黒のコアをバランに発見される。その事実をバランから突きつけられて、結局はバーンの手のうえで踊らされていたことを知って、絶望する。
そこでようやく彼は、支配 – 被支配 という醜悪な関係性をメタ認知するキッカケを得るのだった。
実に長い時間がかかった。
ハドラーがかつてアバンに負けて一度は死んで、バーンに命を救われてから15年。
命の恩人と思っていたボスは、自分を手駒としか思っておらず、最大の目的(地上消滅)も隠していた。
そのふるまいは、かつて自分が魔王として部下を扱っていた態度と同じだと、おそらくは悟ったことだろう。
そして同時に、ようやく彼の人生にはじめて、「ミッション」が生まれる。
すなわち、宿敵アバンの残した弟子と正々堂々の勝負をして勝つこと。
そこからのハドラーの清々しさ、かっこよさは読者を圧倒する。
さて、そんなハドラーの生き様から何が学べるか。
それは、心から納得いく人生を生きる上で「何をしてはいけないか」と「何をすべきか」の2つを理解し、実践することの大切さである。いわば、ハドラーに学ぶ、生の原則だ。
まず、「何をしてはいけないか」から考える。それは、支配 – 被支配の関係性の中に生きてしまうこと。
ちょっとダイの大冒険からは逸れるが、現実の著名人の言葉を借りよう。
Apple創業者のスティーブ・ジョブズは、2005年のスタンフォード大の卒業式のスピーチで以下の言葉を贈った。
Your time is limited, so don’t waste it living someone else’s life.
https://news.stanford.edu/news/2005/june15/jobs-061505.html
「人生は限られている、他人の人生を生きて無駄にするな。」
実は私は、このジョブズの言葉のニュアンスが、長い間、よくわからなかった。「人生は限られている」というのはわかるが、「他人の人生を生きる」というのが、ピンと来なかった。
ところが、ハドラーの生き様に照らし合わせると、このジョブズの言葉の解釈がスムーズにできることに気づいた。
つまり「他人の人生を生きる」とは「他者との抜けられない関係性に引きずられて、自分自身はどう生きたいのかを問うことの意味すら気づかない状態」のことである。
今日の社会においては、たとえば会社員であれば、会社あるいは組織が「抜けられない関係の他者」になっている人も多いのではないだろうか?
「社畜」という便利な言葉もあるが、それ自体は、罵り言葉、自嘲言葉になっていて、それを使ってしまうと、状態を見つめることはできない。
きちんと言葉を使って、自分の違和感に向き合う必要がある。
話を戻そう。
次に、最も重要な、ハドラーから学ぶ「何をすべきか」の話。
すべきことは「自分なりの目的を描き、納得感ある目標を定めてその実現に集中すること」である。
ただ、ここまでの私の議論の組み立ては、突っ込む余地がある。
それはなにか。
ハドラーは、死期を悟ったのち、宿敵アバンとダイを超えてから死ぬ、と生きる道を定めた。
これは、アバン、ダイという他人に引きずられているとは言えないのか?
これは問題ない。なぜなら、アバンやダイというのは「目標の基準」だからである。
アバン、ダイとの関係それ自体は、ハドラーの立てた目的に含まれていないのだ。
目的は、自分が生きた証を残すこと。
そのための目標は、ダイと正々堂々戦って勝利すること。
ハドラーは、300年以上も、死を意識せずに薄い人生を生きていた。
まさに、ロン・ベルクがいう「ダラダラ魔族」の典型だった。
それが死期を悟り、自らに爆弾を仕込んでいた非情の主バーンと決別し、生きる目的を定めて、目標に集中したこと。それによって、生まれて初めて彼の命は輝いた。
ポップが、最後の真・バーンとの決戦の最中に語る「閃光のように」の言葉。あくまでポップは、母親からの語りかけを原体験として、「まぶしく燃えて生き抜くことが、おれたち人間の生き方だ」と、長く生きる魔族との対比で、この魂の言葉を発した。
しかし、ポップの脳裏にこの言葉が思い浮かんだ背景は、必ずしも彼が人間たちと目の前の大魔王の比較だけだったとは思っていない。ダラダラと生きた残酷非道の魔王ハドラーが、最後に生きる目的を見出して、輝きを放ち、そしてポップを守り、励ましさえして、散っていったからこそ。そう、思われてならない。
作中で最も閃光のように輝いていたのは、間違いなく最期のハドラーであろう。
それまでどんなに薄い人生を送っていたとしても。他者に引きずられる状態を認識してそこから脱し、その上で目的を見出し、目標を定めて専心できたなら。その先の人生には驚くほどの「確かな手ごたえ」がある。
たとえ短き命としても、誇れる生き様を。