ダイの大冒険(2020)の28話が放送された。テラン城における残されたパーティたちの対バラン準備、ヒュンケルとラーハルトの対決の後半戦、ボラホーンの復活(?)までが描かれた。
今回感じたのは、やっぱり演出の進行速度がこれまでよりゆっくりになっているような気がする、ということである。今回のエピソードでは、ボラホーンがポップを人質に取るところまでが描かれたが、これは原作漫画でいうと、「思い出のナイフ」「ダイ、出生の秘密」「起死回生」のおよそ3話分にあたる。原作漫画(ジャンプコミックス)の1巻あたりが約9話程度あることを考えると、9/3=3で、3エピソードで1巻くらいに相当する計算になる。しかしこのバラン編までの2020年版アニメは、ざっくり言うと2エピソードで1巻くらいの早さで進んでいた(と私は感じている)。前回のnoteで指摘した「スローダウン」が起きているのではないか?というのが所感だ。これが確実似そうだと言うには、もう少しエピソード数を見てみる必要はありそうだが。
さて中身に触れていきたい。ラーハルトがヒュンケルにバランの過去を語るシーン。ひとまず思ったのは、ヒュンケルに対して「死にきれんと見える」と言うラーハルトだが、ラーハルトの話を聞くヒュンケルがどう見てもしっかりした感じで片膝立ちしている(笑)。これはちょっとどうなんだろうと思ったり。
あとはこれは原作からのストーリー展開に関して思ったことなのだが、回想の中で、バランがソアラと恋に落ち、アルキード王宮に招かれるシーンに関して。どうしてバランは、竜の騎士であることを隠して王宮に招かれる、という選択をしたのだろうか?「自分は神に造られし竜の騎士であり、こないだまで冥竜王ヴェルザー打倒のために死ぬ思いで戦っていた」と素直に明かせばよかったのではと思ってしまった。もしその告白をしていたら何が起こっていただろうか。おそらくアルキード王や部下たちは、神聖で伝説的な竜の騎士に対して、謀略を仕掛けようなどとは思わなかったはずだ。なぜなら、権威性もさることながら、戦闘力が異常に高く、その気になれば王宮関係者を皆殺しにできることくらい想像のついた可能性が高いからである。そうすれば、バランとソアラがその後で巻き込まれる悲劇はすべて回避できたのではないか。率直にそう思ってしまう。
アルキードの人が竜の騎士の存在を知らなかった、その可能性ももちろんある。しかしながら直前のシーンで、ラーハルトの解説によれば「聖母竜が産み落とした子供を神の子として人間が育てる」という歴史が語られている。それは別にテランに限る、という注釈はついていない(言及されなかっただけかもしれないが)。しかし文字通りに解釈するなら、人間たちのうちある程度の割合は、竜の騎士の存在と歴史を知っている可能性がある、ということになる。であるなら、その情報が伝わって、たとえばアルキードの人々が知っている可能性も十分にある。であるなら、それを告げなかったバランの選択は、人心掌握の観点からすると大間違いだったのではないだろうか。結果的にそれで彼は最愛のソアラを失う。
さらにその後のバランの選択も、将棋的に言えば、悪手・疑問手が続く。王宮から追い出され、ソアラと離れた小屋(原作によるとテランの森深く、との記述がある)で暮らし始める選択。なぜ、そんなアルキード王国の息のかかるような近さで暮らしたのか、というところが大いに疑問だ(地図を見ればわかるが、テランはアルキードの隣国だ)。それこそルーラでもなんでも使えるバランなのだから、自分たちが疎まれていることが明白なのに、アルキードの勢力圏に住むというのは無謀としか思えない。すでに関係が悪化している以上、追手が来ることは予見できたはずだ(だからこそ逃げたのだ)。なぜもっと離れたところ、オーザムなり、パプニカなりに行かなかったのか。これはバランの選択ミスと言わざるを得ない。
そして小屋をアルキード兵たちに取り囲まれたときのバランの選択も悪手である。バランは戦闘による打破ではなく、降伏を選択する。だが、別に殺しはせずとも、兵たちを軽く蹴散らして逃げればよかったのではないだろうか。その程度のことができなかったとは思えない。いやもっといえば、単にソアラとディーノを掴んでルーラをすればよかったのではなかろうか。ここで降伏を選ぶのは最悪である。これが結果的に、処刑シーンからのソアラのカットイン、死亡に繋がってしまう。
この悪手の連続を見るに、結論としては、バランの「人間の性質に関する洞察」がズレており、それのままに自分とソアラを不幸にする間違った選択を続けてしまった、ということではないだろうか。これは実はソアラにも通じている。バランという超絶戦闘力を持った存在が、仮に愛する自分を失ったら(しかも人間の手によって殺されたら)バランが発狂して人間を殺すことになる、という想像はつかなかったのだろうか?もちろん、その想像がつかなかったから、原作の物語のとおりになるのだけれども。
もちろん、人生において常に最善手ばかり選べるわけがない、というのはこれは現実でもそうで。それを選べなかったことを後知恵で責めるなんてのはいただけない。とはいえ、自分や自分の大切な人が避けられる不幸に至る恐れがあるなら、それは最大限避けるべく知恵を使うべきではあろう。バランの物語からは、そこが学びである。
ここまで書いてきたことは、はっきりいって野暮なツッコミである。それは分かっているのだけど、ダイの大冒険という作品が好きで、20年以上読み返し続けてきた身としては、だからこそ、ここはきっちりツッコミを入れておきたい。と、初めて思ったのだけど(笑)。まー、それには、私が結婚して、何をおいても大切な存在としておくさんがいるようになったからこそ、気づいたのかもしれないけど。おくさんが死ぬなんてことになったら、その因果の原因になった相手がいたら、もう想像したくもないけど、どういう精神状態になるかと思うと怖いわけです。
というわけで、バランとソアラに深い愛があり、バランに戦闘力がありすぎて、そしてバランが自分の正体をちゃんとアルキードの人たちに明かしていなかったこと、これらの連鎖が悲劇を生んじゃっんたんだよね、という話だった。
のちに本編では、アルビナスやマァムが愛について身を以て色々と考えることになるわけだが、作品中もっとも愛とその裏返しで不幸が襲ったキャラはバランとソアラだな、とは思う。
しかしまあ、このバランとソアラ、そしてダイの悲劇があったがゆえに、ダイは孤島で育ち、アバンという師や数々の仲間を得て、強さを身に着け、最終的にバーンを打倒することができるようになったわけで。上に私が書いたifの「よい」選択をバランができていたとすると、最終的にバーンに地上消滅させられて終わっていた可能性もある。
アニメのエピソードの話に戻すと、王宮を追い出されたバランとソアラが抱き合うシーンはとても良かった。特に音楽がグッと来た。このシーンはアニメで見られてよかった。というこんな感想も、私が10代20代だったときには絶対に出てこなかったと思う。いやー、成長したね、私も(笑)。
そういえばバランがアルキードを滅ぼしたのってどういうワザなんだろうか。電撃からの大爆発が描かれていた。表現通りに考えるなら、ギガデインからのドルオーラであろうか?と思うのだが、アルキードからソアラを抱えて離れるバランが普通状態であり、上半身の服が破けていないところを見ると、ドルオーラの可能性は低いと言える。しかしギガデインだけであの超爆発(国一個吹っ飛ばす)はおかしい。あの破壊力を出せるのは、作中の呪文や兵器のなかでは、黒の核晶くらいのものではなかろうか。ひょっとして、魔界からバランがかっぱらってきて使った、みたいな可能性もあるのか…?
話は、ようやくヒュンケル対ラーハルトの後半戦に戻る。まずヒュンケルが、ラーハルトの槍術を見切れるようになったところ。これも原作からそうなんだけど「食らってもかまわんという覚悟なので致命傷を避けられるようになった」と言うんだが、これ今まであまり疑問に思っていなかったのだけど、よく考えると全然ロジカルじゃない気がする(笑)。いやたしかに、余力を考えて大きな動きでかわそうとしたらかわせなかった、まではロジック通っているんだけど、食らってもかまわんという発想になったらそれこそ食らってしまうのでは?いわゆる「フロー状態」みたいなのもので、そのときその瞬間の行動にのみフォーカスするようになったから劇的に集中力が上がった、みたいな説明ならロジックも通るんだけど…。いやまあ、こんときのヒュンケルの精神状態を思えば野暮なツッコミではある。とりあえずでも、気づいたので書いちゃった。
そのあと、ラーハルトが連続刺突をヒュンケルに当てるシーン。原作で読んでるときにはここも違和感なくスルーしていたのだが、改めてアニメで見ると描写がしっかりされているがゆえに疑問点を持ってしまった。「ヤリで正面から突かれているのに、なぜ一滴も血が出ないのだ」と。その前の横に槍で薙ぎ払うシーンでは胸を切り裂かれているのに、もっと威力のある刺突攻撃で血が出ないのは謎すぎる。どなたか説明を思いつく方いましたらぜひおしえてください。
あとは二度目のハーケンディストールをラーハルトが繰り出すシーン。上空へのジャンプで槍を旋回させるシーンが、なんか人力タケコプターで空を飛んでいるのか!?と見えてちょっとおもしろかった。別にそういうわけではなくて、単に彼のジャンプ力がすごいってことだと思うんだけど、これも漫画ではなんも思わなかったんだが、アニメで動く絵と音がついていると、タケコプターのように見え始めたら、もうそうとしか見えなかった。
最後に気になったのは、ヒュンケルのグランドクルス。これも原作から同じなんだけど、なんでアバンのしるしの鎖で、ハーケンディストールの直撃を受けているのに鎖が切れずに済んだのか不思議に思ってしまった。もちろん説明としては闘気を込めているから、ということなんだけど、闘気を込めればただの金属の鎖でラーハルトの最強技を受け止められるというのも都合が良すぎやしないか。私が考える説明としては、ひとつはアバンのしるしの鎖が鎧の魔槍などと同等程度に頑丈な金属で作られていたということ。もうひとつは、魔槍の直撃が別に鎖に当たる前に、闘気が技と接した時点でグランドクルスを発動させたからということ。普通に考えたら後者のほうかなと思うけど、でもそうだとすると「そんなチャチな鎖がなぜ切れない」というラーハルトの疑問に対する答えが出ない。いやほんとに、ラーハルトさん、私も同じ疑問ですよ(笑)。
とまあ、いろいろツッコミをいっぱい書いたわけだが、好きすぎるゆえにこういう細かいところまで気づいちゃった、しかも子供の頃は全然思わなかったけど改めて今アニメとして見たら思ってしまった、という話なので、これはめっちゃ楽しんでいるがゆえの感想なので、何卒ご了承いたたきたい。って誰宛なんだろう(笑)。
ところで次回タイトルが「バランの怒り」と告知されている。これは原作の各話タイトルのどれにも該当していないオリジナル・タイトルといえる。
個人的には「バラン、ギガブレイクで来い」をタイトルにしてほしかったなぁ…。それに関する詳しい経緯と考察については、Ads of Daiという(私が立ち上げた)メディアのクロコダインに関する寄稿記事↓をぜひお読みいただきたい!