ダイの大冒険(2020)第73話が放送された。キルトラップ、ダイヤ9から、メドローアを放って脱出しようとするも、ポップが取り残されてしまい、絶体絶命かと思いきや、アバンが復活し、トラップを消し飛ばし、そして最期のハドラーとの別れをするところまでが描かれた。
ちなみにみんな視聴者は知っているとおり、東映アニメーションさんのサーバ不正アクセス被害からの復活後の初の放送回である。

冒頭ポップが心のなかで状況分析をして絶望にいたるところで、原作にあった長台詞がある程度カットされて、短くまとめられていた。
そして、ハドラーの「バカ者!」のところ、ここの関さんの力の入り具合がすごい。そしてここのハドラーの名台詞は全採用であった。原作だと言い切るまでハドラーだけを映していたが、アニメではダイとポップの表情、驚きを入れることで、いかにハドラーの言葉が2人に刺さったのかをリアルタイムに描いていて、これはいい演出だなぁと思う。
しかも、それを言うのが倒れた状態のハドラーというところがより分かるカットが入っていた。原作だと、ハドラーがでかく描写されるので、コマ割りも含めて、ハドラーの熱弁が上からくるように見えるのだが、なるほど実態としてはギガストラッシュで地に伏したハドラーが見上げながらこの言葉を語っていたのだ。もう立つこともままならなくなった状態で、アバンの使徒とは、をその宿敵の弟子に語る。最高に決まっている。

このあとのハドラーのセリフは原作と少し変わっていた。原作では「このオレを、ニセ者を倒すために死んだ道化にしてくれるな」とあるが、アニメでは「オレはアバンの使徒と闘ったはず、ニセ者に倒された道化にしてくれるな」となっていた。

あと今回、原作で特に「内言」が多い回だということに気づいた。内言とは、「発声を伴わずに自分自身の心のなかで用いる言葉。」とある(コトバンクより引用)。原作漫画においては、内言は吹き出しを伴わない書き方をされ、逆に外言は吹き出しをつけて表現される。しかし、アニメにおいては、文字がないため、内言と外言を視覚的にかき分けることができないため、その言葉が内言か外言かは、キャラクターの口の動きの有無や、それを聞いたほかのキャラクターのリアクションから推測することになる。その意味では、特に今回ポップの原作における内言は、アニメだけとってみると、口元が見えないときもあって、内言か外言かわからなかったりする。だが、逆にそれがこのアニメとしての表現手法としての魅力なのではないかと思える。BGMやSEと相まって、キャラクターのセリフが感情を運ぶ中心にある。言い方を変えれば、アニメとはもちろん「ビジュアル」あってのアニメなのだが、そこに音がどれだけ重要で、不可欠なのものかと感じられるものだということが改めて今回よくわかった。

原作では勇気を出したポップにハドラーは、にやりという顔を向けるだけだったが、今回は少しセリフも入っていた。ここもまた、アニメならではの描き方だ。

このあと勇気を出し、メドローアとルーラによる脱出方法をダイに説明するときのポップのセリフも、原作に比べると多少削ぎ落とされて、より音声セリフとして馴染むような形になっていた。逆に原作を見ると、ここは2-3ページしかないのにかなりたっぷり情報量が詰まっていた構成なんだなぁと思うわけである。

さてこのあと、ダイとポップは脱出を試みる前にハドラーのほうを見やるシーンがある。ここでの葛藤はどんなものだったのか、いままでちゃんと考えたことがなかったのだがせっかくの機会なので少し考えてみよう。
まずそもそもだが、ルーラで飛び出すときに、もしハドラーを最初から助ける意図があったなら、ダイの脚にでもしがみついてもらえばよかったんじゃないのか?という疑問がある。しかしこれは、ダイたちがハドラーを助けたいと思い、またハドラーもダイに(一瞬の延命ではあるものの)助けてもらいたい、という2つの前提がないと成立しない。しかしこれは、前者については多少あったかもしれないが、後者については明白にノーだったというべきかとは思う。ハドラーはアバンを殺した罪は自らがダイたちに敗れ去ることによってしか償えないと感じており、そしてほぼ限りなくそれが成立したところで、キルトラップに飲まれてしまっただけなのだ。なので、仮にキルトラップに焼き殺されたとしても、実質的にはダイに敗北しているので、自分の想いは遂げている。であれば、ルーラの成功確率がわずかでも下がるかもしれない可能性も含めて、ハドラーがダイに助けてもらおうとは思わないはずだ。
なので、やっぱりここは、ダイとポップが「ハドラーを助けるべきか否か」で逡巡してしまっただけだと捉えるのがいいのだろう。そういう意味で、このあとハドラーが語る「なにをモタモタしている、手が見つかったのなら死ぬ前に試せ、オレのことなど忘れろ、しょせんはすぐ死骸に化ける」というこの4つの言葉は、トラップの限界が迫る中、時間がない状況で、ダイとポップを脱出作戦遂行に向けて意志をブレさせないようにするための、最高の「ケツたたき」の言葉ではないだろうか。

「なにをモタモタしている」→時間がないことを認知させる
「手が見つかったのなら死ぬ前に試せ」→行動を促す
「オレのことなど忘れろ」→自分への障壁なのだからそれを意識するなという気遣い
「しょせんはすぐ死骸に化ける」→自分を助けることは無意味だという理論的補強

このハドラーの4ワードは原作でもアニメでもまったくそのままであった。いやはや、このハドラーの「ケツたたき」こそが、三流魔王から武人となり、戦う相手への敬意と未来への想いにあふれた卓越したリーダーになった証左ではなかろうか。

さてこのあと、ハドラーが立ち上がり、ほぼ残っていなかったはずの魔法力で炎を抑えにかかる。よくよく考えるとこのシーンはすごい。まずそもそも、ストラッシュを完全に決めたダイのほうですら、体力がほぼ尽きて立てない状況なのだ。それを、技を盛大に食らって本当の意味で瀕死であるハドラーが立ち上がる。むしろこの直前のシーンで、行為というよりも、言葉の力でポップを動かしたハドラーなわけで、いやはやもう立つこともできないんだ、と思わせておいてからの立ち上がりと魔法力である。このめくるめくハドラーの、全身全霊の絞り出し連発には改めて圧倒的な凄みを感じるではないか。

ダイの大冒険では「精神状態」と「戦闘力」がかなり相関しているというか、精神状態が高まることで高い戦闘力が発揮されるというのは、これまで数々のシーンでも感じられたわけだが、改めて、精神状態と魔法力にも相当につながりがあることが推定されるシーンでもある。それこそ、ポップがもう氷系呪文で炎を抑えきれないと思ってからのハドラーの檄によって再び抑え込めるようになったときもそうだし、そしてこのハドラーの魔法力も、本当に何一つ残ってなかったはずの魔法力をどういうわけかひねり出してきたのだ。

さてここでポップが言う「なんてことしやがんだてめぇ!」このセリフはどう解釈するのがいいのか。だって、完全にハドラーのおかげでメドローアを撃つことができるわけなのだから、これは「ありがとう」以外ないではないか、と一瞬思ってしまうところなのだ。
だが、この極限状態で、メドローアで抜け出すというアイデアを思いつくも、炎が強すぎて不可能そうだということで精神的にも完全に追い詰められたポップが、そんな冷静に状況判断できるわけがない、ということを考えると、このセリフは納得の極みである。上述したように、絶対に立てるはずのなかったハドラーが立ち、魔法力を出した。それに混乱しないわけがない。そういう意味で、このポップのセリフとリアクションは、すばらしく場面にあったセリフといえる。このセリフを入れた三条先生のすごさ、そして今回ポップ役を演じる豊永さんの演技も含めて、漫画でもアニメでも、このセリフは改めてぴったりのセリフだと感じさせてくれる。

このあと、魔法力を放ってキルトラップの落下を防ぎながら、セリフを話すハドラーのカットがまたよい。ダイやポップとの身長差、体格差があらためて大きいことを感じさせるとともに、そもそもハドラーはついさっきまで宿敵だった男なのだ。それも、三流魔王から強大な敵に成長した男。身体だけでなく、中身も本当にデカくなったわけである。が、それがダイに破れ、地に伏し立つこともできないと思われてからの立ち上がっての「2人を支える」姿。
まさに、我々人間が金峯山寺仁王門で金剛力士像を見上げたときのような圧倒的な力強さをそこに感じてしまう。とはいえ、これがまた、ほんの一瞬の力強さであることが、そのアンバランスも含めて、このハドラーの最期のドラマ性であるわけだが。

さてこのあと、再びハドラーに動かされ、メドローアをつくるポップ。このシーンの躍動感がまた素晴らしい。これまで、メドローアをポップが放つときには基本的には勝負の中で放つ必要がほとんどだったため、丁寧に溜めることがなかった。というか、むしろいかに放つ時を敵に悟られないかが重要、それがメドローアという呪文の性質的な特徴でもある。
が、ここでのメドローアは敵ではなく、天に放つ。トラップを四散させるために。であるがゆえに、覚悟を持って挑む作戦でありつつも、丁寧にメドローアの発射前動作を描くこともできる。そして、ポップの顔だ。このときのポップの顔はアニメオリジナルだ。実はここまで気合を入れた顔をしていたポップはあまりなかったような気がするくらい。
メドローアをはなつとき、一瞬にモノクロ調になる演出もまた、印象的でよい。

そしてメドローアが空を開いてからの、ハドラーが「いまだ!急げ…」と言いかけるところで、言いかける途中で身体が崩壊してしまって崩れ落ちるシーン。よく考えると、ここでハドラーが声を出さなければポップはハドラーを振り返ることもなく、さっさとダイに掴まり、二人で脱出できたんじゃないかという気もする。そういう意味で、なんでハドラーは声を出してしまったのかということになるが、いやこれも、そのときのハドラーの気持ちになったら、これは言いたくてたまらないだろう。この作戦は、ダイとポップとそしてハドラー3人の、最初で最後の共同作戦なのだ。憎きキルバーンの奸計を見事に打ち破り、脱出に成功する。そうなったら、そりゃあ声も出すよって話である。だが結果的に、その崩れたハドラーに気づいたポップは足を止めてしまう。そしてダイのルーラは、1人での脱出になってしまうのだ。
このとき、原作にはないが、ダイがルーラを唱えるときに目をつむっているシーンが描かれていた。なるほど、それならたしかにポップが捕まったかどうかを確認することはできない。いやそもそもなんで目をつむったんだという話になるが、この作戦は本当にギリギリの奇跡なのだ。そしてポップを、いやハドラーをもダイは信頼している。信頼しているからこそとにかくタイミングよくルーラを唱え、その結果しかしポップは掴まることができなかった。
いや、このあたりのひとつひとつの物語の運びが、文章で書けば書くほど圧倒的にすごいことに気づき、改めて驚嘆する。

さてこのあと、脱出したダイの周りに集まった仲間たちがポップがいないことに気づくシーンで、やっぱりなんといってもマァムがここでは一番重要なキャラとして描かれた。それはまあそうである。炎を背に、振り返るマァムの表情が、これまた原作にはない、恐怖と絶望の表情として描かれている。たぶんこの後にも先にも、こんな絶望した顔のマァムはいないのではないか。

そしてCMの入と戻りのところ、いつものアイキャッチなし!いつもあのアイキャッチを見慣れているので、こうやってカットしたときのインパクトがやはり鮮烈だ。Prime Videoとかのサービスで見るとあまりに自然に続いているので半分過ぎたことに気づかない(笑)。

さてこのあとバーンとキルバーンの雑談?タイムになるわけだが、原作ではここに至る前にナレーションが入っている。「マァムの叫びに応える者は誰もいなかった 〜 正義の力の無力さを感じたことはなかったに違いない」これが、まるまるとカットされている。
ただこれは上述のように、漫画とアニメの表現技法の違いを考えれば当然といえば当然だ。もしここでナレーションを入れようとすると、アニメの全体ナレーションのようにアバン役櫻井さんが話すのか?というとやはりそれはおかしいということになるだろう。
これはやはり原作が漫画という媒体であるからこそ、登場人物のセリフでもなく、内言でもなく、冷静な第三者的な語りを入れることが、状況の極限さを感じさせるのに有効だという判断で入れている表現だから、アニメではなくていいわけだ。

ただこの原作ナレーションが個人的にはかなり印象深いシーンではあったので、なるほどこれだけ最高にダイの大冒険を愛している人たちがアニメをつくるときであっても、表現技法の違いというのはそりゃ当然あるわけだし、それでいいんだということを改めて感じる機会になった。

やばい、もう今回文章量が多すぎるので多少ここからは端折りたい。

しかしハドラーがポップにかぶさって護ろうとするシーンの良さは触れずにはいられない。燃える炎の音がゴウゴウと聞こえる中で、困惑するハドラーと、納得の境地にたどり着いてしまったポップの会話が、あまりに美しい。楽器のBGMもよく合う。
ポップが「あの世で会ったら怒られるかな、いや怒らなねえや」のところで、大粒の涙を流すゴメちゃんのカットが入る。これもまた、アニメオリジナルだ。冒険の初期からすべて付き合ってきたゴメちゃんはポップにとってもやはり最高の友人なのだ。それが今、助ける手立てがなく死ぬ。そりゃ、泣くよね。音もなく流れるゴメの涙。そして、叫び声の響きと共にあふれるマァムの涙。

そして、ハドラーの涙だ。このシーン、原作ではないが、アニメではハドラーの声にならない嗚咽が入る。これもまた関さんの名演である。このあと、ダイ好きTVで、関さんは旧アニメのハドラー役の青野さんのリスペクトが大きかったことを語っているが、旧アニメでは残念ながら、卑怯な魔軍司令ハドラーの時点で終わっている。この超魔ハドラー、そして本当の意味でダイとポップの真実の同志となり、3人目の主人公とすら呼べるほどに成長したハドラーを演じられるのは、関さんしかいない。改めてそれを感じさせるハドラーの涙だった。
このシーン、ダイ好きTVでも触れていたとおり、鼻水も出ているようにも見える。鼻水なくして成長なし!?なる言葉もあったが(笑)。これまで鼻水は、小物の焦りの象徴のように描かれてきていたわけだが、この最期の鼻水は、ハドラーの涙と同化して、美しさすらある。

からのアバン復活!この5週間、延期が続いたシーンがついにである。さらにいえば、旧アニメが打ち切りのまま終わり、ダイの大冒険のアニメなどというものは二度となく、したがって動くアバン復活などは決して見ることがないと思っていた人々からすれば、もう20年ぶりくらいにというか、望んでいたシーンがここにある。

なんだけど、ちょっと気になったのは、アバン、すごい柔らかい声でポップに語りかけるんだが、どうやらキルトラップのあった場所からかなり遠いところにいるように見える。これはいったいどう解釈したらいいのか!?感動のシーンは感動のシーンだがそれはわかっているので、ここはあえて週刊ダイログとしては突っ込んでおきたい。

そしてキルバーンのシーンが差し込まれるがここで「なぜだ、なぜだーっ」というセリフが入っていたことも、原作とは違い、興味深かった。どちらかというとセリフなしで、グラスを落として驚愕していた顔にインパクトがあったので、「なぜだー!」というセリフには若干の小物感がある。しかし原作のエンディングを知る読者からすれば、むしろキルバーンはある意味では小物なのである。主人公たちの成長の対極にいる、狡猾さと残忍さだけで存在感を示すキルバーン。むしろこのへんでしっかり小物ぶりを出していくのも、最後の着地に向けては妥当なのかもなとは思う。

からの、アバンがハドラーに語りかけるところでの「甘い、あいも変わらず甘い奴よ、ヘドが出るわ!」からのキルバーンへのヘルズクロー直撃。いやはやこれは原作で何度読んだシーンかわからないが、そうはいってもここでアニメ化されるとドキリとして、息を飲む。それほどにハドラー役の関さんの「真意を悟らせない」声と、グラフィックがハマっていた。まさかアバンに攻撃を?と思わせてからの、異空間から現れたキルバーンへの一撃と吹き出す血。青空とマグマの血、そしてカラフルなのに燃え尽きようとして色を失って崩壊していくハドラーのコントラストと、美しい音楽がぴったり来る。

そして、ハドラーの身体が粒子となって空間に広がっていくなかではじまるエンドロール。これはすごかった。まさかエンディングテーマではなく、アニメ本編にかぶせてエンドロールを入れるのはまったく予想していなかった。ハドラーの最期のセリフとともに、目を閉じて暗転する。そしてポップとアバンの一言で終わる。いやー、これは完全に予想を裏切る終わり方で、もうこれは完全にやられた!天晴!!!

そうだ、思い出して書き添えておきたいこと。今回ハドラーの声優が何度も書いたが関智一さんなわけだが、今回のハドラーの最期が何にかぶるかと言うと、機動武闘伝Gガンダムの主人公の師匠にあたる東方不敗マスターアジアの最期に非常にかぶる。いやもちろん、すべて良い意味で、である。Gガンダムの主人公ドモン・カッシュの声を当てていたのは、そうもちろん、今を遡ること25年以上前の関智一さんそのひとだったわけである。東方不敗の場合、最初は主人公が尊敬する師匠として登場するが、途中で悪の道に手を染め、最期はしかしながら主人公への優しさと愛を取り戻して、ドモンの手の中でこの世を去る。ハドラーの場合は最初が小物的な敵という立ち位置から、徐々に成長して、ついには主人公たちから敬意を持たれるまでになって、そしてその宿敵アバンの手の中で灰になる。Gガンダムでは関さんの役は死する師匠を見送るほうだったわけだが、今回ダイの大冒険ではまさにその先に舞台を降りるほうだったわけで、なんというかこのコントラストもいいなぁ、と思ったのだった。


【Podcast】 Cast a Radio 「ダイの大冒険」を語る