ダイの大冒険(2020)第100話が放送された。ついに最終話である。タイトル「さらば!愛する地上よ」。ダイが鬼眼王バーンとの闘いに決着をつけ、地上に戻り仲間と再会するも、キルバーン人形の爆発を食い止めるために再び空に飛んでいき、空中で爆発。そしてその後のエピローグが描かれて、本作品は完結した。

冒頭、いつもだったらアニメのオープニングが流れるところで、なんといきなりダイとバーンの闘いのシーンから入った。これはびっくり。いつもだったらアニメの始まりに1-2分遅れても「オープニング流れてるところだから大丈夫」と思いがちだったのに。ちゃんと正座して待っててよかった(いや本当に正座はもちろんしてないよ)。

この宇宙空間?的なところの描かれ方というかキャラも暗く描いている感じがして、これは多分このあとの太陽のシーンでの明るさの差分の強調のための準備なのかな?という感じがした。

原作でもあるがダイは「剣が」というセリフを言う。これまで通常の真バーン状態での闘いであれば、むしろ剣はバーンの再生を食い止める役割をしていたし、格闘勝負ですでに竜魔人ダイのほうが若干バーンを上回るくらいになっているように見えてたが、鬼眼王バーン形態になるとそもそもバーン本人の腕も関係なくなっており、たしかに剣は手元にあったほうが戦力になる、ということはなるほど考えてみればそのとおりである。闘いの遺伝子が受け継がれたことで、ダイ自身の思考や経験もそうだけど、戦闘における最適な選択の判断がよりされやすいのかもしれない。

ダイの胴体を貫いた一撃を放ったあとの勝ち誇るバーンのテンションの高さがすごい。このあたりも子安さんの名演である。

そしてどちらかというと地上側から飛んできた真魔剛竜剣が、ダイを守るように地面に刺さる。これはバランの思いが剣にこもっていて、ということなのだろうか。バランは紋章をダイに受け継いだが、ここで剣も受け継ぐことになる。

このあとでオープニングが入る!なるほど、オープニングも入るは入るのか!ただこの演出が凝っていて、Bravestの曲の終わりに映る剣が刺さったキービジュアルをそのまま提供画面につなげていて、これも最終回ならではの見せ方なんだと気付かされる。

そして真魔剛竜剣の登場に驚くバーンと、そこに立ち昇る朝日からの光を受けてきらめく真魔剛竜剣の光がダイに力を与えるような描かれ方をしている。そして優しい音楽が流れ、ソアラの姿が真魔剛竜剣に重なる。と同時に、バランの幻影なのか、ダイの中で本当に存在しているバランなのかはわからないが、バランが寄り添って語りかける。この位置関係からすると、むしろ真魔剛竜剣はソアラということになるのだろうか?それはやっぱ解釈が変か。昇ってくる朝日がソアラを象徴していて、その光を受けて輝く剣が、ダイなのだ、という解釈になるんだろうか。

このあとのバランのセリフ「今こそお前も太陽になるのだ」というもの。原作もアニメでもこのとおりになっている。私は昔からずっと、太陽になる=死ぬということなのかと思っていた。よく言われる「お星さまになる」という表現は基本的に死を意味しているからだ。だがこのときのダイは、仲間たちの元に勝利して帰還することこそが自分の果たすべきこと(そして友や愛する人の望むこと)だとよくよく知っている気もする。この矛盾というか、ここはどう解釈できるのだろうか。
私の考えとしては、ここで出てくるバランはそれこそ実在のバランではなく、ダイの心中に描くバランなのではないか、ということだ。つまりダイは、竜魔人化したら元に戻れない可能性、仲間たちといっしょにいられない可能性を感じている。もちろん戻りたい気持ちも大きいのだが、その間で動いている。そしてそもそも、その前段階としてバーンを打倒しなくてはならないわけだが、現在形勢は鬼眼王に対して、戦闘力的に不利な状況にある。ここでまず勝利するために必要なことは、この真魔剛竜剣を自分の武器として使いこなし、バーンに決定的一撃を加えること。それを達するためには、「太陽になる=自己犠牲も含めてみんなを守るために命を捨てる覚悟を出す」ということで「自分のリミッターをさらに解除する」ような意味で自分の覚悟を高めたんじゃないだろうか、ということである。

「さよなら、さよならみんな」からの「空から照らすよ」の一連のダイの内言は、やはりその解釈とつながっているように思える。太陽になる=自らの命は失っても必ずバーンを討ち果たす、みんなのために、と。

ダイが剣でバーンの左腕を破壊しながら鬼眼に切り込もうとするも、バーンも赤い光を強烈に放ってブロックしようとして、そしてダイが白黒の劇画的に描かれて、ぱっと見「いったかこれは!?」と見せてからの、鬼眼シャッターがバコンと降りるところ。なんというか、なんとか閉店間際に駆け込もうとしたのに無情に降りるシャッターのような、そんな気すらある(ないか)。そして真魔剛竜剣はシャッターの硬さに、というかダイのパワーとバーンの肉体強度に耐えきれず、あえなく粉々になってしまうのだった。
昔から思っていたのだが、どうしてバーンは弱点の鬼眼をさらすようにしているんだろう、と。この鬼眼シャッターが使えるなら鬼眼王になったときからずっとシャッター降ろしていればいいのでは…と思ってしまっていた。ただ今回アニメで見て、ここからいろんなパワーやら魔力やらを外に放出している感じがしたので、ずっとシャッター閉めたままだとそれはそれで都合が悪いのかと思うようになった。ということなのでほんとに防御するときだけシャッター閉める、は正しいのかなと思う。あるいはバーンも初めてやって、「あれシャッターできた!ぼくすごいじゃん!」みたいなこともあるのかも。

ダイがバーンの右腕に捕まって握りつぶされそうになるところ。ここで「ポップ」というダイのセリフが入る。これ、原作に立ち戻ると、たしかに口が「ぽっぷ」と動いているではないか!全然気づいてなかった。というか、三条先生・稲田先生はもちろん意図してそのコマを描いていたけど、あえてセリフはつけてなかったということになる。それを今回アニメとして種崎さんに「ポップ」というセリフで明示的にポップの想起を語らせたのは、いや非常にイイなぁと思った。
ここでダイはポップの言葉を思い出し「閃光のように」と言う訳だが、今回初めて気がついたのは、ここでダイが「閃光のように」というから、あのポップの「閃光のように」というシーンにはインパクトがあるんだ、という話である。いやそんなん知ってたわ、と多くの読者は思っているかもしれないけど(笑)意外なほど私はそこをあまり意識していなかった。真バーンの地上消滅作戦に心折られながらも立ち上がったポップのセリフが、今ここで鬼眼王に追い込まれながら最後のパワーを振り絞るダイのひと押しになる。
これ、先程の「太陽になる」と対比してみると非常に面白いと思うのだ。つまり「太陽になる」という発言は、私の考えでは、バランが言わせたというよりはダイ自身の思想として「自分の命を捨ててみんなを救う」発想で力を出そうとしたことになる。一方今回はポップという最高の仲間・友が自分を立ち上がらせてくれた「友の声、アクション」の記憶がダイを動かしたということになる。
言い方を変えれば、孤独で自己犠牲的な闘い方をし続けてきた竜の騎士の闘い方ではバーンを倒しきれなかったところで、仲間との絆という「勇者ダイ」として築いてきた心や信念が、最後に鬼眼王バーンを倒すための最後のエネルギーとチャンスを生み出した、ということになる。
ここが、ダイが今までの竜の騎士とは違うのだ、ということの象徴でもあるだろう。

そしてバーンの右腕をふっとばし、空中を飛翔したあと、眩しく輝き(閃光のように)バーンにスキが生まれた瞬間に、一直線にバーンの左胸に刺さったダイの剣に向かう。そして、一刀両断。
ここに関して以前podcastのゲストに出てくれたカイさんが「ついにロン・ベルクの武器は真魔剛竜剣を超えたのだ」と書かれていたが、いやまさにそうなのだと思う。真魔剛竜剣という神々が作った、そして孤独な竜の騎士の武器では勝てなかった相手に、魔族であるロン・ベルクが使い手のために作り上げた剣で、絆の力で勝利できたダイ。これは改めてすばらしい展開だなと思った。

大爆発を起こし、太陽のなかに消えていったバーン。ちなみに昔販売されていたコンビニコミック版に出てくる三条先生インタビューによると、バーンとヴェルザーとさらにいる第三勢力のトップは「負けたら石になる」呪いをかけあっているそうで、ゆえに石化して最後死んだということだそうである。今もその設定が公式として使われているのかはわからないが。
余談だが、魔界編というのはその第三勢力を打倒するための物語の構想だったようである、というのもそのコンビニコミックの情報。たしかにヴェルザーは別に封じ込められているから倒しに行く必要ないもんな…。

と話がそれたが、地上に落下してくるダイ。ここでレオナがいち早く気づくのは、それはダイを思うレオナだから納得だが、ここからのチウの望遠鏡の出す速度が早い(笑)。めちゃくちゃ俊敏だなチウ…。
受け止めに行くのはもちろんポップ。
ダイの剣がきれいに回転して地面に刺さったのがなんかかっこいいな(よく見ると原作もそうなってた)。

ダイにバーンとの結末を尋ねるポップに対してダイの返す言葉が「大魔王バーンは倒れた」なのがダイらしさだなと思う。「バーンに勝った」でも「バーンを倒した」でもなく「バーンが倒れた」という表現。そう、ここがバーンとの大きな違いである。バーンは「ダイに勝つ」が目的になっていた。でもダイにとってはそんなことはどうでもいい。バーンが地上破壊を目論むから、それを止めるのが目的で、そのためには「バーンが倒れた」状態になればいい。だから、そうした。やはりどこまでいってもバーンの思う「力」とは違う力の使い方をしたいのだ、ということが伝わる。

そしてみんなのところに行ってこい、のところで、やはり最後に出てくるのはレオナの姿だった。ああ、ようやく、レオナのところにダイは帰ることができたんだ。だけど…それがあまりに短くて、切ない。

Aパートの終わりのアイキャッチがダイたちパーティみんなのグラフィックで、Bパートはじまりが魔王軍勢揃いだった。これも、最後のアイキャッチのこだわりを感じた。

ここで「バーンにはお前を倒したら地上を去るって言ったけど」というダイの独り言がアニメオリジナルで追加されていた。これは非常に見事なセリフの追加だったと思う。そう、このときのダイはやはり自分で言ったこの言葉を引きずっている。だから「太陽になる」もそうだけど、命を引き換えにバーンを倒さなくては、くらいのことを思っていた。しかし見事にというか、バーンを倒しつつ自らは生き残って地上に帰ってきた。本来大喜びすればいいはずなのに、ダイはまだ率直にそれを喜んでいいのかわからない。という心情を見事にこの短いセリフが表現していた。
というところでレオナがダイを気遣う声掛けをしてダイが「もみくちゃにしておいて」と返すところ一笑い起きて、ここで視聴者はようやく本当に安心していいのだ、と分かる。ここから一連のキャラクターたちの会話には、これからの未来をどう作っていくかという思いがこもっていく。

そしてレオナの「どこにも行かないでしょ?」とダイの「ああおれはこの地上が一番好きだよ」のやりとり。
私は原作を読んでいたときは、それこそかつて若かった頃には、そこまでこのシーンからこの会話の真意を想像することができなかった。だが今回、アニメを見てようやっとわかった。これは平たく言えば、レオナからダイへの「あなたと一緒に暮らしたい」という言葉だったのだ。そしてダイはそれを「うん、あなたと一緒に暮らそう」とそう返した、ということなのだ。
そこでその2人を温かく見つめるのかアバンとフローラである。この2人も本当は、かつて共に暮らしたかった。が、アバンもフローラも実際にはそうすることができなかった。だが、これからはできる。そしてそれは、ダイとレオナもそうなのだ、と。それを感じさせるこのシーンが本当によかった。

というところで出てくるのがキルバーン先生である。
不穏な例の音楽とともに。

ここでキルバーンが「大奇蹟」という言葉を使うのが改めて面白いと思った。キルバーンもバーンと同じく、奇蹟という言葉が嫌いというか、そんなものはないと思っている側の存在だ。だが、結果としてその奇蹟が起きたことは認めるようにはなった。とはいえどこまでいってもダイたちと思想が重なることはなく、共存はできない関係なのだ、ということは感じるが。

キルバーンの説明に対してアバンが「いまの言葉はおまえに言ったものではない」と返すところ、原作だとアバンの内言だったが、アニメでは発話しての外言というかたちで演出されていた。
からの「そう、ぼくが本当のキルバーンだ」のところ。
あああー!やっぱそうだったのか!ピロロも吉野さんが演じていたのかーー!とようやく最後の謎が明かされるとともに、声がピロロのものからキルバーンのものになり、そしてそれをピロロのほうがしゃべる、ということになり、脳がちょっと混乱したというか「うおおそういうことか!」となった。
てっきり私は、ピロロがしゃべるときは正体を明かしたあともピロロの声のほうだと思っていたので、まさかこっちがキルバーンの声になるとは思わなかった。つまりは、ピロロの声はほんとはキルバーンの声(低いほう)だったけど、ずっとピロロとして演じるために高い声を出し続けていたということになる。これは漫画では当然わからない部分だったので、アニメでこのように描いてくれて、大変おもしろく、またなるほどなーと感じた。

正体を現したピロロ(キルバーン?なんて書くか、ややこしいw)が人形の仮面をぽちっと外し、そして出てくる黒の核晶が前にバーンが落としたもののように動き出す。

原作ではピロロが「ひょっとしたら凍ったそこの柱も誘爆してしまうかもしれないが、地上が平らになる程度で済むだろう、2発程度ならちょうどいい」と言っていたが、ここではこのセリフは後半部はばっさりカットされ、代わりに「ケケケケ」という笑いになっていた。
私は原作読んでいたときから「一個ピラァが誘爆したら結局高熱が地上を走るから全部誘爆するやーん」と思っていて、しかも2発といってもサイズ感全然違うじゃんと思ってたのだが、そのあたりはピロロの説明からは消えていた。いやしかしピロロよ、お前は本当はどう思っていたのだ(笑)。やっぱ誘爆したら結局地上が吹っ飛んで、おまえの主のヴェルザー様は激怒するんじゃないのかと思うんだけど(笑)。

すかさずレオナが放つヒャダルコだが、人形の核晶には効かない。これに対してピロロが原作だと「マグマ成液の高熱が弾くから」 という説明があったが、ここもアニメではカットになっていた。ただそうなると、これはなぜ効かないのか?ということになるが、実際的な理由は原作のとおり、ということなのだろう。単に説明をピロロがサボった結果、より人形を止める方法がなく絶望的な感じがする。
そういえばメドローアなら黒の核晶ごと消せるのか?という話も考えたことがあるが、消せる可能性もあるが誘爆の可能性も絶対にないとは言い切れないため、ここでメドローアというのはやはり無理なのかもしれない。
ダイ世界にはバシルーラという呪文があるかどうかは言及はないけど、バシルーラならばこのケースで対応できたのかな?

そしてピロロが捨て台詞を言って立ち去ろうとする瞬間、原作だとナレーションで「その瞬間はじかれたように…」というのが入るが、今回アニメではナレーションはなく、飛び出すカットというか、アバンがゴールドフェザーを投げつけるのが先だった。閃華裂光拳を打ち込まれて、あえなく死亡するピロロ。
考えてみると、いままでアバンが甘さを出してピロロを殺さなかったせいで、ここでキルバーン人形が地上消滅危機を起こしていると考えると、キルバーンとの一騎打ちをしていたときのアバンの判断ミスは(まあしょうがないんだけど)非常に痛恨である。だが今回、弟子のマァム、そして心優しく、敵とは言えど傷つけることをためらってしまうマァムが、なんのためらいもなく閃華裂光拳を打ち込んでピロロを抹殺したというのを見ると、マァム自身「力なき正義」の無力さを闘いを通じて実感して、必要な行動がとれるようになった、という現れなのかもしれない。

青空高くにトベルーラで2人で運んでいく人形。雲の中を突き抜けていく様が、音楽と合わせて、勢いがあり、美しく、切ない。
ポップを蹴り落として、さらにトベルーラを加速させて空に向かうダイ。アニメだと、太陽の中にソアラとバランの姿を見出していた。バーンにとって太陽は力の象徴、渇望すべき力だったが、ダイにとっては太陽は優しくみんなを照らして守ってくれる存在である。上述したように、一度ダイは鬼眼王との闘いで「太陽になる」決意をしたが、そのやり方ではバーンを倒しきれなかった。だが今再びここで「太陽になる」決意をしている。今度は、地上のみんなの命をただ純粋に守る、という行為としてそれを行うとき、ダイにもう迷いがないのだろう。

起きる爆発。叫ぶポップの「バッカヤロー!」。そしてレオナの涙。
このあたりはもう正直、涙止まらんかった。

場面は変わる。いままであまり考えていなかったが、ここはデルムリン島なのか!?と思ったが、このあと後ろにお城が描かれているからやっぱデルムリン島ではなさそうだ。となるとここはどこなんだろう。

原作だとナレーションで「世界を探した」という話が入るが、今回アニメではなんと、ブラスのセリフとしてそれが話されていた!これは素晴らしいと思った。ダイの育ての親であるブラスの心中というのは、いままであまりちゃんと考えたことなかったけど、レオナやポップともまた違う深さでの喪失感があるということに全然気づいてなかった。しかも、ゴメちゃんももういない。ブラスは10年以上育ててきたダイとゴメちゃんを失ってしまったのだ。これ、親の気持ちとして考えるとめちゃくちゃ辛いよな…。

マァムがこのあと述べるセリフに、アニメオリジナルで「ピラァの装置も完全に停止させ」という言葉が追加されていた!これは!私が前から思っていた、バーン打倒後のピラァどうするんだ問題はどうやら解決されたということらしい。うーん、実際どうやって停止させたのか気になる。やはりロン・ベルクあたりが分析して、実際にはノヴァが爆弾処理班的にオペレーションしたんだろうか。もしそうだとすると、この新たなる師弟、世界に対する貢献がいきなりめちゃくちゃすごい。

そしてロン・ベルクが、剣の光のくだりを入れる。
改めて見ると、ここのシーンの重要性がすごい。いまさらであるけど。これがなかったら、ダイが帰ってくることを誰も信じることはできなかっただろう。だが、剣の製作者であるロン・ベルクが自信を持って語ってくれることで、みながダイの生存、そしていつかの帰還を信じることができる。
ダイの大冒険という作品のなかで、ロン・ベルクと彼の作った武器たちの果たす役割、存在感の大きさをまじまじと感じる。そんなシーンであった。

ポップのセリフ、そしてレオナの少し寂しげだけど希望を持った微笑みでBパートが終わり、そしてエンディング曲に入っていった。
もうゴメちゃんはいないし、そしてダイもいない。だけどダイは生きている。ダイは太陽になるつもりでいたけれど、太陽にはなっていない。ダイはダイだから、地上に帰ってくるのだから。

そして驚きの!Cパートが用意されていた。
リアタイ視聴者の中には、CMが挟まれたことで見逃してしまった人もいるのではないか。いや私もあやうく見逃しかけた(笑)。

原作だと横長のコマの連続でポップの語りで描かれる無声のシーンが、アニメなのでしっかり声も音も含めて描かれる。これはすごくよかった。
自然の風景や、活気を取り戻した街の様子。
面白かったのはヒュンケルとラーハルトの2人の旅が、岩山のようなところで「行くか」「ああ」と言っているところ。もう結構すでに旅をしている雰囲気なのだが、まだこれは序盤なの?原作でもあったとおりそれを尾行しているのかなんなのかのエイミさんの姿もあった(笑)。

また原作だとおそらくデルムリン島?での建設風景に関して1コマだけだったところがアニメだとチウが「ヒムちゃんこっちこっち。みんなの新しい砦をつくるんだ」というセリフが入っていた。そしてかつて死んだと思われていたがやっぱり死んでいなかったおにこぞうA・Bもちゃんと遊撃隊に入れてもらっていた。
だがなんといってもここでは、その砦の材料の材木に、ゴメちゃんが木彫りされていたシーンが追加されていたのが珠玉の演出だった。当たり前だけど、彼らはゴメちゃんを決して忘れていないのだ。

次にマトリフと偽勇者たちのシーン。アニメだとマトリフが「まだ持っているんだろ?盗んだもの全部返してこい」と偽勇者たちに命じている。なんと!これ私はずっと、マトリフが偽勇者たちから金品や宝石を巻き上げているのだと20年以上思っていました。すいません!!まさか返しに行かせていたのか…。
でも改めて原作のマトリフの表情を見るとなんか小さいコマだけど巻き上げているようにも見えるんだよなぁ(笑)。これはもしかして、今回アニメとして解釈の変更が入った可能性はあるのでは…(つまり三条先生にこういう解釈でいきたい、という確認をとったのではないかと)。

最後。ポップの語りと、そして書物を抱えたレオナのカットが重なり、そして剣の台座に刺さったキービジュアルが出て、そこにダイの顔が描かれる。

THE ADVENTURE OF DAI
DRAGON QUEST
Fin

ここで本当に本当に、物語は終わった。

2年間、いや連載当初の1989年から考えると33年間を経て、なんというか、ダイの大冒険はひとつの終わりを迎えることができたのかなと思う。
もちろん獄炎の魔王であったりいろんなコンテンツは続くけれど。
私が認識してきた「ダイの大冒険」はひとつここで終わりを迎えた。

今回の2020年版のアニメは、本当に素晴らしい作品で、これを2年間にわたって毎週楽しませてもらえたことはかけがえがない時間となった。
改めて、これを企画して作ってくれた方々、放送・配信よって視聴できるようにし続けてくださった方々に感謝の思いをお伝えしたい。

そしてアニメ完結につき、この週刊ダイログもおしまいとしたい。

いままで週刊ダイログを読んでくださった皆様へ。
本当にありがとうございました。


【Podcast】 Cast a Radio 「ダイの大冒険」を語る をよかったら聴いてください!毎週ダイの大冒険のアニメの感想などを2人で話しているお気楽番組です。Apple Podcast、Spotify、Amazon Musicなどで無料で聴けます。