ダイの大冒険(2020)第96話が放送された。タイトル「閃光のように」。バーンが完全勝利を宣告するも、そこに地上からメルルの声が響き、ピラァ・オブ・バーン阻止のためにノヴァやフローラたちが動き出すところ、そしてダイが再度立ち上がるところまで描かれた。

冒頭、冥竜王ヴェルザーが異次元から声を響かせる。この声、圧倒的な印象深さ。そう、中尾隆聖さんの声であった。中尾さんといえば数々の名演があるが、アニメとしては、やはり『それいけ!アンパンマン』のばいきんまんと、ドラゴンボールのフリーザ役が極めて印象的である。ミストの正体が古川登志夫さんだったように、ここでも風格たっぷりである意味「国民的声優」を起用したこのキャスティングはさすがだと思った。思ったが、正直ちょっとぼくが脳内で想像していたヴェルザーの声とはちょっと違ってもいた(だからイヤ、とかそういうことは1mmもない。単純に脳内ボイスと違った、というだけである)。なんか、もうちょっと低く響き渡る、もう生物ではないかのような声なのかなぁと思っていたという感じだった。まあもうそうなると人間じゃ演じられない、ということになるけども(笑)。

このあとのヴェルザーを紹介するバーンのセリフがよくよく聞くと親切な説明度合いの高いセリフだったので、バーン様、ポップ達や我々にも親切だなぁなどと思った。

しかしこのヴェルザーの異次元からの出現がよく考えるとすごいなと思った。力を封じ込められている割には、このバーンパレス、はるか上空の都合のよい位置にビジョンというか音声接続というかできていて、しかもつまりそれはこれまで世界中で起きていたことをつぶさに観察していたということでもあるのではないか。そうなると、ヴェルザーの情報収集の実際的な能力は下手するとバーンより高いってことになるんじゃないの?など思った。
であるならば、キルバーンがすべてを知ったかのように行動できるのも、ヴェルザー陣営の情報把握度を考えればおかしくないのかもしれない。

あと改めて思ったけど、ダイが生まれる前のバランとヴェルザーの戦いって、相当すごい戦いだったと思うんだけど、バーンは当然その顛末を知っていたはずだが、ハドラーやそのほかの魔王軍達は本当に何も知らなかったんだろうか。上でヴェルザーの情報収集力と書いたが対象的にハドラーたちの当時の情報収集力はめちゃくちゃ低い気もする。まあでもそれは人間たちも同じか。

そしてヴェルザーが天界の精霊たちに封じ込められたことを話すわけだが、ふと思ってしまった。精霊たち、今なにやってんの!!この地上がバーンの計略で吹っ飛んでしまうこの今、仕事しないで君たちはいつ仕事するんだ!!それともバーンが徹底的に武力主義だから、ふしぎな力をもつ精霊たちでは何もできることはないんだろうか。いやでも、ダイたちに対する間接的な支援くらいしてもいいんじゃないかとは思うのだが…。
バーンは神々の愚行に怒りを示すが、もし神々と天界の精霊たちがつながっているとするなら、どっちかというと今何もしない精霊たちはそれでいいのかという気がする(笑)。

しかしこのヴェルザーとバーンの会話は改めて興味深い。何がかというと、その「騙し」ぶりだ。バーンは「キルは死んだぞ」と言い放つ。つまりバーンの認知の中ではキルバーンはアバンに打倒されたことになっている。しかし原作最終回に明らかになるように、キルバーンは死んでいないどころか機械仕掛なので死ぬも何もない。つまりキルバーンの死の偽装はバーンをも騙すことに成功しているわけだ。さらにその親分であるヴェルザーは、当然このバーンとの会話シーンでは、キルバーンの正体、ならびに死んでいないことを知っている。知っているが、それはバーンには隠している。
この前提で考えると、バーンが「この賭け、余の勝ちだ」とバーンが言い放つときにヴェルザーは「クッ」と悔しそうな声を出す(原作ではここは無言の・・・となっている)が、これはヴェルザーの芝居ということになる。つまり「悔しいフリ」をすることで「キルは死んだ」というバーンの思い込みを邪魔しないようにしているのだ。
いやー、ヴェルザーとんでもない策士である。強大な力を封じられたとはいえ、世界中の様子を見たりビジョンを出現させたりはできるわけだし、キルバーンにも指示を出し続けて、そして死んだふうに見せてバーンも勇者一行も欺き、のちのチャンスを伺っているあたり、この瞬間において知略という意味ではヴェルザーはバーンを上回ったといって差し支えないのだ。

となると、そもそもなんでヴェルザーが今回というか、この最後のバーンとダイたちの闘いに出現したのか、という理由を考えると面白いなと思う。はっきり言って出てくる必要は表面上はない。バーンは「うれしいなお前が祝辞を述べてくれるとは」などと能天気なことを言っているが、上述したようにヴェルザーほどの知略家がそんな祝辞なんか述べるためだけに出てくるわけはないのだ。
じゃあなんで出てきたのかというと、それはもう「バーンのこのときの出方を見る」「勇者一行の状況を見る」すなわち「地上消滅を食い止める方法があるのかないのか探る」というためだろう。その可能性を探るために、バーンに語りかけ、状況をなんとかする方法がないのか探り、ワンチャン勇者たちがバーンを倒してくれないものかとも思うわけだ。だが実際にはかなり状況は厳しく、ヴェルザーにとっては望まない結末になりそうになっている。それを確認して、「地上も欲しかった」と述べる部分、ここはウソではないはずだ。ただしキルバーンの死の偽装は続けており、最後の瞬間までバーンを倒す方法を探っていることは間違いないだろう。

ヴェルザーが去り際に「ダイか まるで屍だ バランには遠く及ばぬ」というのは、本当に負け惜しみの部分もあるけれど、これは見方によってはダイに対するちょっとした気付きの糸口を与えたという見方もできるように思う。実際原作でもアニメでもダイは、このヴェルザーの捨て台詞を聞いたことで「父さん」と思い、父に心をはせる。これが後に立ち上がっていく最初の入口になっているように見えるのだ。
どうでもいいが、ここでヴェルザーが言う「まるで屍だ」というのはドラクエのゲームのオマージュってことでいいんだろうか?

このあとバーンが「強いていうなら殺気・・・」とダイとバランの違いを口にする。これが原作だと音には発しない内言のように描かれていたが、アニメでははっきり口を動かしていたように描かれた。つまりこれは、このバランに対する評価はダイたちの耳にも入ったということになるだろうか。これはのちにダイが竜魔人と化すときにの伏線となる。

このあとの「湧いてきたぞ実感が!」のところ。このカメラワークが非常に面白かった。左右からそれぞれカメラをバーン様に振っていく形。今回のダイの大冒険のアニメの中では私が覚えている限りではこの描き方は初めてだったように思う。ある意味でこれはミュージカル的というか歌舞伎的というか、視聴者に対する「見栄を切る」場面なのだと思う。それほどまでにこのバーンのここの完全勝利の手応えの大きさと、ダイやポップの打つ手なしの対比が極まっていることが見事に描かれた。

と言うところから、奇跡のように入ってくるメルルの一言。
原作だと声の主がわからないところでエピソードが終わるが、アニメだと最初から(当然だけど)メルルの声だと分かるのが、メディアの違いとしてここも改めて面白いなと思う。

しかしこのメルルの能力が改めてすごい。この長距離脳内通信というのは、バーンとミストバーンクラスの文字通りの一体感あるキャラたちの特権的能力として描かれていたように思う。それをこの土壇場でポップとの間で発動させたメルルの覚醒ぶり、尋常ではない。はじめてメルルが作中で出てきたときから、祖母ナバラから「才能がすごい」と評されていたわけだが、まさかこの土壇場で逆転ホームランのきっかけとなる脳内通信を発動させるこの超時間的な物語へのメルルの潜在能力の開放をもってくるのは改めてすごいギミックだと思う。

そもそも、脳内通信にとどまらず、ポップが見聞きしていたことを無意識状態にあったメルルが全部理解している、というのはいやこれはバーンとミストバーンですらこんな芸当はできていなかったように思う。この能力は「強さ」ではないが、ある意味でバーンを超えたと言えるのかもしれず、バーンはここにももうちょっとびっくりしてもいいんじゃないだろうか(笑)。

このあと、柱で核晶を凍らせたロン・ベルクとノヴァの様子を見るためにバーンがビジョンを開くわけだが、このときに2人とラグなく会話できていて、いやさすがここはバーン様の魔力である。低遅延ですごい距離離れたところの人たちと自由にビデオ通話できるこの魔法。いったいなんの呪文なのか分からないが。
しかしこれ、原作の描かれた90年代には当然そんな遠隔ビデオ通話なんて普通の人には決して手の届かないものだったのに、いまやZoomやら何やらで、誰でも安いスマホでできる時代になっているというのは、この20年あまりでの現実世界の通信の飛躍的進歩を感じる(ダイの大冒険マジ関係ないけど)。

とそれはさておき、ここでロン・ベルクがバーンに言い放つ「おれは多少なりとも気に入ったこいつらと運命をともにするさ」という言葉の重さ。かつて漫画を読んでいたときにはそこまで思ってなかったけど、いまアニメでこのシーンに触れると、これがどれだけの決断で、そしてだからこそノヴァだけでなくはるかバーンパレスにいるポップにも立ち上がらせる力を与えたことが分かる。ロン・ベルクはこのあとそれこそポップが言う話でいえば「寿命が長い方」の存在である。魔族だから。バーンほどでなくても1000年くらいはざっと生きられるだろうか。それでも、その残り数百年の人生が今終わる可能性が高いとしても、ここでノヴァをはじめ気に入った人間たちと同じ道を選ぶということ。
それこそ、「異常なまでの強さを持っている」という意味では(いまは手が動かないとしても)ロン・ベルクはバーンの側に近いキャラクターである。その彼が、自分の人生においての最大価値を自己の生存・保存ではなくて「気に入った仲間と生きること、その長さは関係ない」というある意味での価値転換を強く宣言してくれること。
これはのちのダイの「力が正義の否定」のために相当な下支えになっているような気がした。ダイはバーンの種族が魔族だから討とうとするわけではない。あくまでその願いが、自分の愛する者たちの破滅に繋がってしまうからこそ、その否定をしなくてはならないわけだが、だがそのために結局必要なのは力なのだというとてつもない矛盾に直面する。直面するが、しかしでもブレることはない。
これが、ダイが冒険の中で苦悩しながらたどりついた「力」に対する答えなのだろう。

力は正義などではない。しかし正義というものは結局立場によって異なるものである以上、バーンの正義を否定する自分たちの正義を証明するものとして、力はもっとも使いたくないものでありつつ、最後にこれを使うしかないというものでもある、と。

この一連のバーンの完全勝利の美酒に酔う中で、よく考えるとこのロン・ベルクのやりとりが一番バーンのプライドを傷つけて、美酒をまずくさせた効果があった気がする。というか唯一バーンをえぐった一撃だった気がする。ロン・ベルク、剣技だけじゃなくて口殺法でもバーンから一本とったのはさすがだ。これが絆の力か。

ヒュンケルの師匠はアバン、ポップの師匠はマトリフ、マァムの師匠は老師、と人間たちの師匠3人衆がいるわけだが、ロン・ベルクも4人目の、そして初めての人間ではない師匠として、心に刻みたい。このロン・ベルクの言葉が、人間たちに勇気を与えた。

やばい相当長くなってしまった。多少はしょろう!(笑)
とりあえずあとで地上の面々の描かれるところで、凍らせに行くときに、原作だとエイミが「私がルーラさえ使えたら」というところが、アニメだとバダックさんがそれを言っていた。ここの変更は興味深い。やっぱエイミさんは賢者なんだからルーラは使えてほしいってことなのだろうか。しかしどのみちエイミは動いていない以上、ほんとにルーラできるなら飛び出すわけなので。うーん、わからない!

あとはノヴァの「這ってでも進むんだ」のところが、原作だと「閃光のように」の次週に描かれるところが、今回順番が入れ替わって、ここで先に描かれていた。これは納得である。先程のロン・ベルクの言葉に喜び、ダイたちの想いを受け取ったノヴァの行動を描くという意味では、ここがぴったりだ。
夕焼けの中、本当によろめきながら歩いていくノヴァの足取りがよかった。

そしていよいよのシーンであるが。
ここはダイ好きTVでも声優の豊永さんが語られていたとおりで、なるほどたしかにここからのポップのしゃべりは、それまでに積み上げてきたポップというよりは「この場で考えて心からの言葉をつむぐポップ」という印象に感じられた。
ポップの幼少期の回想。ここは、静止画・絵本タッチで描かれていたのが想像の外でびっくりした。しかし、見れば見るほどここはこのやわらかい静止画がいいなぁと思う。ここはポップ、そしてスティーヌの言葉が、本当に大切なのだ。この描き方はそれが強調される。
この話をきいても1mmも刺さらないピクリとも動かないバーンと、心を動かされてダイの対比がまたよい。

そしてとうとうこの「閃光のように」にたどり着くが。
改めて思うが、この閃光のように、という言葉はこの一連のポップのセリフの中では途中に、相対的には強調されずに語られる。それよりは最後の「よっく目に刻んどけよこのバッカヤロー!」が、アニメのポップの顔もそうだし、演技の強さとしても強く、エネルギーにあふれている。
ただそれでも、まったく刺さらないバーンというのが本当にいいのだが。まったくもって価値観が違う、というのがよくわかる。

余談だが、この「バッカヤロー!」という言葉は原作の最終話で、ポップたちをかばって爆発を受けてしまうダイに対してもポップが叫ぶ言葉だったりする。
バーンに向けて放つ「バッカヤロー!」は「おまえのやりたいようになんてぜったいさせないぞ」という否定の意味だと思うが最後にダイに向けて言う「バッカヤロー!」はどんな感情だったのか。またこれはアニメ最終話のときに考えよう。

ということで次回、神の涙。ゴメ…!


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